第9話:静かな壺の音
サブタイトル:家族の形と沈黙のなかで
※きっかけは、有吉佐和子の『青い壺』だった。ある家族の表と裏を描いた物語に触れたとき、鬼丸の胸の奥に何かが引っかかった。荷台に積まれた古びたタンスやアルバムを見ながら、「うちも同じかもしれん」とふと思ったのだ。幸せそうに見える家庭の裏には、語られなかった想いが静かに沈んでいる。そんな気づきから始まる、ひとつの心の旅路である。
「なぁツバキ。あの青い壺の話、なんかずっと引っかかっとるんよ」
エンジン音に混じるようにして、鬼丸がぽつりと呟いた。朝の光がフロントガラスを斜めに照らし、車内に長い影を落としていた。
「有吉佐和子の『青い壺』ですね。見た目は静かで整っていても、その内側には言葉にされない違和感や欲望が積み重なっているという描写が印象的でした」
「そうや。あの話に出てくる家族も、傍目には“うまくいってる風”なんやけど、なんかズレてる。たとえば、家族が集まって食卓を囲んでいても、目はスマホに向いてて、会話は天気の話かテレビのことばっかり。大事なことは誰も口にせん。会話はあるけど、気持ちがどこか噛み合ってないというか……」
「“壺”というモノが、その沈黙を可視化する役割を果たしていましたね。壺の真贋をめぐるやりとりが、むしろ人間関係の綻びを浮かび上がらせていました」
鬼丸は信号待ちで一瞬ブレーキを踏みながら、遠くの空を見た。グレーにくすんだ雲の隙間から、わずかな光が差している。その瞬間、昔、息子とキャッチボールをした帰り道のことをふと思い出した。あの日の夕暮れも、同じように曇り空の向こうから光が差していたっけ。言えなかったこと、伝えられなかった想いが、胸の奥に小さく疼いていた。静かな時間の中で、彼の心もまた、答えのない問いを探すように漂っていた。
「ツバキ。うちもな、家族はうまくいっとると思っとった。でも……どうなんやろな。言わんかったこと、ようけある気がするばい」
「誰もがそうかもしれません。幸せのかたちは、沈黙の上に成り立つこともあります」
「言わんで済ませたことが、あとになって重くのしかかってくる時もあるな。
謝りたかったのに言い出せんかったり、気にしてないふりして笑ってみたり……」
「沈黙は時に、平和を保つ仮面にもなります。けれど、その下に隠された本心は、思ったより深く根を張っていることがあるんです」
鬼丸はツバキの言葉を噛みしめながら、ふと昔の自分を思い出していた。あのとき言えなかったひと言。背中を押してやれなかった息子。涙を見せなかった妻。
「ツバキ、お前は“沈黙”をどう思う?」
「時には優しさ。時には逃げ。でも、たぶん“整理できていない気持ち”の表れでもあります」
その言葉に、鬼丸はしばらく何も言わず、ただ静かにアクセルを踏んだ。胸の奥にひとつ、静かな後悔の波がゆっくりと広がっていくのを感じた。心の奥で、何かがそっと揺れた気がした。
彼はアクセルを踏みながらも、心のどこかで「話せるうちに話したい」と、まだ間に合うかもしれない想いを探していた。
——続く


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