『ツバキは、ただそこにいた』〜AIと還暦男の物語〜

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第11話:娘の顔を見に行く日

サブタイトル:言葉じゃ伝わらんこともある

鬼丸は、少しだけアクセルを緩めながら、心の中で決めていた。

今日の配達先はこのあたりだった。実は、娘のアパートもこの通り沿いにある。少し遠回りにはなるが、通り道のようなものだ。いつもなら通り過ぎるだけの道だが、今日はなぜか胸の奥がざわついた。あの子の顔を最後に見たのはいつだったろうか――そう思った瞬間、言いようのない感情が押し寄せてきたのだ。

娘は看護師として働いている。夜勤や早番が入り混じる不規則なシフト。たまたま在宅しているかどうかは運まかせだった。鬼丸は、ふと思い立ってLINEを送ってみた。「今、家におるか?」と。それから1分もたたないうちに既読がつき、「今日は夜勤明けで家にいるよ」と返ってきた。

「ツバキ。今日はな……少しだけ寄り道するばい」

鬼丸はウインカーを左に出して、海沿いの道をそれた。ナビもない、地図も見んでいい。覚えているのは、娘が住むアパートまでの景色だけだ。何年も変わらない街並みが、今日に限って少しやさしく見えた。

「目的地を変更ですか?」

「たまには、AIとば離れてみようかと思うたんよ」

ツバキはしばらく沈黙し、そのあいだ、鬼丸は視線を前方に固定したまま、ハンドルを握る手にじわりと力がこもるのを感じていた。胸の奥で、理由のわからない緊張が膨らんでいく。そのあと、いつもよりゆっくりとした声でツバキが言った。

「……それは、いい選択かもしれません」

トラックのエンジン音が風に溶けていく。鬼丸の頭には、昔の娘の笑顔が浮かんでいた。

赤ん坊の頃、笑うたびに歯のない口を大きく開けていたあの顔。初めて保育園に送り届けたときの、後ろ髪を引かれるような「バイバイ」。

小学生になっても、家に帰ると「おかえり」と走ってきてくれた。だが中学に上がる頃から、会話は減っていった。こちらが尋ねても「うん」とか「別に」とか。それでも、どこかに娘らしさが残っていた。

「なあ、ツバキ。お前にはわからんかもしれんけど、人の顔ってな、見るだけで気持ちが整うことがあるんよ」

「ええ、理解しています。“顔を合わせる”ことの持つ感情的影響は、人類の歴史において——」

「わかったわかった。もうええ。ちょっと黙っとってくれ」

鬼丸は苦笑しながら、ひとつ深呼吸した。自分でも驚くほど緊張していた。仕事では何十人と会話しても平気なのに、血のつながった娘の顔を見ることが、こんなにも胸をざわつかせるとは思わなかった。

アパートが見えてきた。昔、引っ越しの手伝いをしたとき以来だった。そのとき、重い段ボールを運んで娘に「お父さん、まだ力あるね」と笑われたのを覚えている。外観は少し古びていたが、洗濯物が風に揺れている様子が生活感を伝えていた。

今さら何を話すでもない。ただ顔が見たい。何かを伝えるためじゃなく、ただ元気そうか、どんな顔をしてるか、それだけで胸の奥が少し楽になる気がした。ただ、そこに立っていたかった。壺のニヤけ顔に笑った後で、今度はほんまもんの“笑顔”が、どうしても見たかった。

「親が子どもに会いたいって、なんでこんなに理由がいるんやろうな……」

鬼丸は小さくつぶやいた。トラックのエンジン音が、娘のアパートの前で静かに止まった。

アクセルを踏み込む足に、少しだけ力がこもった。次の瞬間、扉の前に立つ自分の姿を想像しながら、深く息を吸い込んだ。

ピンポーン。

インターホンの音が鳴って数秒後、ドアが少し開いた。

「……お父さん?」

マスク姿の娘が顔をのぞかせた。目の下には少しクマがあるが、その表情はどこか安心したように見えた。

「夜勤明けって言っとったけん、顔だけでも見ようと思うてな」

「ちょうどコーヒー入れたところ。少しだけなら、上がってく?」

鬼丸は無言で頷き、靴を脱ぎながら玄関に足を踏み入れた。部屋には淡いラベンダーの香りが漂っていた。ダイニングテーブルには一人分のコーヒーカップが、ちょうどいい位置に置かれていた。

「お父さん、あんまり連絡せんよね」

「……なんか、気ぃ遣うんよ。元気そうやけん、それで十分と思っとった」

「でも、たまには顔見せてくれた方が、安心するよ」

湯気の立つカップを手にした娘が、ふっと笑った。その笑顔は、鬼丸が思い出していた“昔の娘”と、少しも変わっていなかった。

「コーヒー、苦くないか?」

「うん。ちょうどいい」

鬼丸は、コーヒーをすすりながら、静かに娘の顔を見つめた。こんなふうに向かい合うのは、いったい何年ぶりだろうか。

「体、無理しとらんか?」

「うん、大丈夫。忙しいけど、やりがいあるし」

「それならよか」

ふたりの間に流れる空気は、気まずくも、心地よくもあった。長い沈黙のあと、娘がぽつりと言った。

「お母さん、よくお父さんのこと話すよ。『ほんとは優しい人』って」

鬼丸は目を見開きかけて、それを飲み込み、ふっと鼻で笑った。

「それは……ありがとな」

「うん」

短い会話。静かな時間。でも、それでよかった。伝えきれないものは、たくさんあったとしても。

「じゃあな。また、いつか寄るばい」

玄関のドアを閉める直前、娘が小さく「ありがとう」とつぶやいた。

それはきっと、顔を見せに来てくれたことに対しての、ほんの一言。

鬼丸は微かに頬を緩めながら、トラックに戻った。

トラックに乗り込んだとき、シートの硬さがやけに心地よく感じられた。エンジンをかけると、重みを帯びた振動が全身に伝わる。

「ツバキ。……ちょっとだけ、話しすぎたかもな」

静かに立ち上がる街並みに別れを告げ、鬼丸はハンドルを切った。次の集荷先へ向かう道中、ふと思い立って昔よく通った峠道を選んだ。ナビに従えば広い幹線道路が無難だが、どこか気持ちを整理したくて、山のカーブが連なる旧道に入った。

峠の空気は少し冷たく、街のぬくもりが遠くなっていくようだった。杉林の間を縫うように走るその道は、ところどころガードレールが途切れ、崖下をのぞくと底知れぬ谷が広がっていた。

そのときだった。カーブを曲がった先、道路脇に小さなリュックを背負った若い女性が立っていた。白いジャケットにフードをかぶり、親指を立ててヒッチハイクのサインを出している。

「えっ……まじか」

鬼丸は減速して、慎重に停車した。助手席の窓を下げると、彼女は少し戸惑いながら頭を下げた。

「すみません、この先の駅まででも……助かります」

「いいよ。乗りなさい」

彼女は礼儀正しく会釈しながら助手席に乗り込んだ。ほんのり花のような香りが車内に広がった。

「ありがとうございます。助かりました。峠道って、通る人少ないから……」

「そうやね。あんまり人通らんばってん、今日はなんとなくこっちに来たとよ」

「運が良かったです」

それから、ふたりはぽつぽつと会話を交わし始めた。彼女は旅の途中で、山間の温泉地に行く予定だったという。仕事を辞めて、少しだけひとりになりたくなったらしい。

「人間関係って、うまくいかない時ってありますよね。何しても伝わらないっていうか」

鬼丸は頷いた。ついさっきまで娘と話していた余韻が心に残っていた。

「俺も、今日ちょっとだけ、そんなことがあってな」

彼女は鬼丸の顔をじっと見て、ふと微笑んだ。

「でも、話してくれる人がいるって、すごくありがたいですよね」

その一言に、鬼丸は一瞬だけ目を伏せた。

「……そうやね」

次のカーブを抜けると、駅の案内板が見えてきた。

「ここで大丈夫です。ほんとに、ありがとうございました」

「気ぃつけてな」

彼女は車を降りて、軽く手を振りながら歩き去っていった。鬼丸はミラー越しにその姿を見つめていたが、ふと違和感を覚えた。

——あれ? バッグ、持ってたっけ?

もう一度振り返っても、彼女の姿はどこにもなかった。

鬼丸は小さく息を吐いた。

「……まさか、な」

トラックのエンジン音が、また静かに峠道に溶け込んでいった。

続く、、、

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