娘編 第2章:アパートの灯りとコンビニ飯
サブタイトル:私はまだ“あかり”だけど
白衣を脱ぐと、あかりの背中から一気に力が抜けた。
ナースステーションの忙しさや患者のまなざしの中で張っていた糸が、ふっと緩む。 ロッカーにしまった白衣の袖をそっとなでて、あかりは深呼吸をひとつ。
「今日も、終わった」
エレベーターを降りて病院の裏口を出たとき、空はすっかり夜の色をしていた。
街灯に照らされたアスファルトの道を、ゆっくりと歩きながら、あかりは一日の出来事を反芻する。車のヘッドライトが遠ざかり、誰かが落としたコンビニの袋が風に吹かれて転がっていく。通りすがりの猫がガードレールの影から顔を出し、すぐに姿を消した。夜の静けさの中に、生活の断片がさりげなく溶け込んでいる。
ふいに靴ひもが少し緩んでいるのに気づき、立ち止まってしゃがみ込む。小さなことにも、疲れた心は敏感になっていた。
アパートまでの帰り道、途中にあるコンビニの自動ドアが軽い音を立てて開く。
暖かい明かりと、ちょっとした食べ物の香りが迎えてくれる店内で、あかりはおにぎりとサラダ、そして甘めのラテを手に取った。どれも、手が自然に伸びたものだった。冷たい棚の前に立ったとき、体が温かさや塩気を無意識に求めていたのかもしれない。 けれど、それが今夜の自分を支えてくれる小さなご褒美のように思えた。
レジに並びながら、ふと今日の病棟のことを思い出していた。
「あ、あかりさん、ありがとう。また来てくれてよかった」
あかりの手を握り、少し潤んだ目で微笑んだあの患者の顔が、まぶたの裏に焼き付いていた。 その言葉だけで、今日一日が報われたような気がしていた。
けれどレジで「温めますか?」と尋ねられた瞬間、その感動も現実の喧騒に押し流されていく。
「お願いします」
小さく返して、袋を受け取る。
外に出ると、夜風が頬を撫でた。ちょっとだけ心が落ち着く、その冷たさに安心しながら、歩みを再開する。
アパートのドアを開けると、部屋は少しひんやりしていた。 電気をつけ、エアコンのスイッチを入れて、あかりはソファに腰を下ろす。
電子レンジの「チン」という音が、生活の音として染みる。ラテの湯気を見ながら、あかりは天井を見上げた。 その白い天井に、ふと今日の出来事が重なって浮かんでくる気がした。嬉しかった言葉、少しだけ残る疲労感、それでもどこか温かい満足。 部屋の静けさが、反響のように心に広がっていく。
シャワーを浴び、髪を乾かし、部屋着に着替える。 鏡の前に立つと、ノーメイクの自分が映っていた。
「疲れてる……でも、どこか満たされてる」
鏡の奥で、もうひとりの自分がうっすらと笑ったような気がした。 それは“あかり”でありながら、どこか“カレン”にも近づいているような、そんな曖昧で不思議な感覚だった。
クローゼットを開けると、衣装の隙間に黒いポーチが見えた。 それに手を伸ばすと、少しひんやりとした感触が指先に伝わってくる。
カレンの小道具が詰まったそのポーチ。 ラメ入りのリップ、イヤモニ、手鏡、予備の香水、小さなマスコット。 どれも“ステージの自分”に欠かせないアイテムたち。
「あと1日……」
つぶやいた声が、部屋の静けさに吸い込まれる。
私はまだ“あかり”。 でも、もうすぐ“カレン”になる。
それは逃避ではない。舞台に立ったときだけ現れる、もう一人の自分。 緊張も迷いも一瞬で振り払って、スポットライトの中でだけ息をする“カレン”という存在。
明日、その扉が再び開く。
——続く


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