「ツバキはそこにいた」〜AIと還暦男の物語〜

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📘【番外編③】黒服・三浦の見た夜

サブタイトル:カレン様には、触れない方がいい

黒服の三浦は、この店で働いてもう5年になる。 嬢たちの笑顔の裏にあるものも、客の欲望の質も、ある程度は見ればわかるようになった。 たとえば、よく笑い明るく立ち回る子ほど心に壁を持っていたり、逆に無愛想に見える子がふと見せる弱さに真実が垣間見えたりする。 この世界で生きる彼女たちの“演じ方”には、それぞれの癖や匂いがある。 しかし、カレン様にはそうした“癖”がない。演技の型にすらはまらず、ただそこに在るだけで、空気が変わるのだ。

この夜の世界に身を置いていれば、人の表情や仕草、声のトーンから心の内側が透けて見えることもある。 けれど、“カレン様”だけは、今でもまったくわからない。

いや、正確に言えば──わかりたくないのかもしれない。 きっと、自分の中にも彼女と同じような“痛み”や“空白”があるのだと思う。 もしそれに触れてしまえば、見て見ぬふりをしてきた自分の弱さが露呈してしまう気がするのだ。 何か深くて重たいものに触れてしまいそうで、こちらが試されているような気さえする。 彼女の中には、決して外には漏れてこない「芯」のようなものがあり、それが空気を変えるのだ。


あの夜も、彼女はいつものようにVIPルームで接客に入っていた。 相手は常連のヒロ。普段は軽口ばかり叩く男だが、その夜ばかりは違っていた。 スーツの襟を正したまま、じっとソファに腰掛け、目の奥には重たい影を落としていた。 彼の姿には、どこか崩れかけた堤防のような危うさがあった。

モニター越しにその様子を見ていた三浦は、思わず背筋を正した。 「この部屋の空気、完全に支配されてるな」 そう、直感で感じた。

カレン様は、大きな声を出したり、露骨に威圧することはない。 笑うわけでも、媚びるわけでもない。 ただ、静かに言葉を投げる。それだけだ。 その声は、落ち着いた低音で、一語一語が丁寧に紡がれている。 音量は決して大きくないのに、妙に耳に残る。 まるで心の奥に直接届くような響きを持っていて、聞いた者を思考の渦に引きずり込むような力がある。

その一言で、男たちの鎧が剥がれていく。 ヒロのような男が、自分の弱さをさらけ出すなんて、普通じゃ考えられない。 いや、彼に限らず、多くの男たちがカレン様の前では“自分”に戻ってしまう。 それが怖いと思う者もいれば、救いと感じる者もいる。


三浦自身も、たまに休憩室ですれ違うことがある。 「お疲れさまです」と声をかけると、 カレン様は一瞬、視線を向けるだけで、すっと通り過ぎていく。 その立ち姿、歩き方、視線の重み──どれを取っても隙がない。 彼女の存在は、まるで劇中の一場面のようで、現実味がないほどに整っている。

その目を見たとき、いつも心の奥がザワつく。 睨まれているわけじゃない。ただ、見透かされている気がする。 この人には、嘘が通用しない──そう思わされる、澄みきった視線と芯の通った静けさがある。 まるで見えない鎧をまとっているようで、その存在感はひと言も発せずとも、場を支配するだけの説得力を持っている。 彼女に近づくには、自分の中の“誠実さ”を試されるような、そんな圧力がある。

スタッフの間では、冗談半分でこんな言葉が交わされる。 「カレン様には、触れない方がいい」

それは、ただの怖がりではなく、 誰もが“この人の過去には踏み込めない”と感じているからだ。 その理由を誰も知らない。けれど、彼女の視線の奥にあるものが、 ひとつの物語を想像させる。それはきっと、平坦な人生ではない。


ヒロが部屋を出たあと、カレン様は何事もなかったようにメイクルームへ戻っていった。 一歩一歩、音も立てずに歩くその後ろ姿は、何かを終えた者の静けさをまとっていた。 そのすれ違いざま、三浦はいつものように「お疲れさまです」と声をかけた。

すると彼女は、ほんの一瞬だけ、視線を向けて小さくうなずいた──気がした。 それだけで、背中に冷たい風が通り抜けたような感覚が残った。

彼女がこの店にいる理由は、誰も知らない。 でもひとつだけ確信しているのは、 “演じている”女ではないということ。 演技ではなく、生き様そのものが彼女を形作っている。

あの人は、自分の中の闇と向き合いながら、 “カレン”という名前のもとで、“あかり”という本当の自分を生きている。 華やかな衣装に身を包み、毅然とした態度で客を迎える姿の奥に、かすかに震えるまつげや、誰にも見せぬよう息を殺して感情を抑える瞬間がある。 過去の何かを抱え、それでもここに立ち続ける彼女の姿は、演じるのではなく、むしろ“さらけ出す”という覚悟に満ちている。 その痛みも、葛藤も、未熟さすらも隠さずに抱えながら、それでも立っている。

だからこそ── カレン様には、触れない方がいい。 それは畏れではなく、ひとつの敬意だ。

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