📘【第15話】
サブタイトル:見えない時間
「えーっと……積み込みは、予定より1時間押してまーす」
事務所の兄ちゃんが、スリッパのまま構内をうろつきながら、スマホ片手にぼんやりとした口調で言った。無精ひげが目立つ顔には眠気と無関心が入り混じり、やる気のない笑みすら浮かんでいた。その声には悪びれた様子もなければ、謝意もない。いつも通り、淡々とした“遅れの報告”。
トラックが4台、敷地内の壁沿いに並んでいた。それぞれの車両の運転席には、眠そうな目をしたドライバーたちが身を沈めている。車体に光が反射して、空の雲がぼんやり映り込んでいた。
そのうちの1台、鬼丸のトラックの中。 運転席にいた鬼丸は、助手席に手を伸ばしてぬるくなった缶コーヒーを取ると、手のひらで少し転がしてからプルタブを引いた。
「まぁ、これが普通っちゃ普通よな……」
静かな構内に、プシュッという音だけが乾いて響く。エンジンはとっくに切ってあって、暖房も入れていない。トラックの室内に冷たい空気がじわじわと染み込んでくる。
エンジンを切ってすでに30分が経過していた。スマホの画面には、さっきと変わらない時間が表示されている。時間だけが、淡々と減っていく。その数字を見るたびに、何もしていない自分に苛立ちが湧く。けれど、この“何もしない時間”こそが現場の現実だと、どこかで割り切っている自分もいた。
ミラー越しに見える後方のトラックでは、若いドライバーがフロントガラスに額をくっつけて外をぼーっと見ている。何度も腕時計を見ては、大きくため息をついているようだった。
「動いとらんのに、働いとる。」
鬼丸は心の中でそう呟いた。
積み込みが遅れても、待機時間に給料が出るわけじゃない。休憩時間とも違う、ただ“拘束されている時間”。
走ればガソリン代がかかり、タイヤはすり減る。止まっていれば収入が止まり、睡眠時間も削られる。どっちにしても、削られるのはドライバー側。
「待っとる間に洗車でもしてくれれば助かるんだけどなー」なんて、笑いながら言う荷主の担当者もいる。だが、鬼丸の頭に浮かんだのは、長距離明けで寝不足のままこの場所に着いたばかりの自分の顔。
「洗車? 俺らはヒマそうに見えとるんやろな……。ただ座っとるだけに見えるとやろうが、この時間が一番心が削れるんや」
鬼丸は再び缶コーヒーを口に運びながら、ゆっくりと頭を後ろに預けた。目を閉じれば、昨日の高速道路の渋滞と、サービスエリアでの満車トラブルがよみがえる。
深夜のパーキングエリアには、大型が止まれる場所がもうなかった。無理やり隅に止めて仮眠を取っていたら、後ろから乗用車のドライバーに「出られんやろうが!」と怒鳴られた。休憩すら許されん仕事ってなんやろう──そのとき思った。
鬼丸は視線をフロントガラスの外に戻し、ハンドルの上に腕を組む。
──“止まっている時間”を、誰が働いたって言ってくれるとやろか。
誰にも見えん。 誰にも評価されん。 だけど、確かに削られていく“命の時間”。
「これが“2024年問題”の答えか……」
※「2024年問題」とは、働き方改革によりドライバーの年間時間外労働に上限が課され、現場では賃金減少・人手不足・遅配などの影響が懸念されている。
口に出したその言葉は、フロントガラスの向こうの空に、ため息のように消えていった。
後ろのトラックのエンジンが再始動する音が聞こえた。小さな振動が地面を伝って、鬼丸のトラックにも伝わる。
「そろそろ……かな」
そう言って少しだけシートを起こし、窓を開けた。
春先の風が、冷たく、けれどどこか優しく頬をなでる。 その風に乗って、構内のどこかからラジオの音が流れてきた。パーソナリティが笑いながら言っていた。「物流が支える、暮らしの未来!」
「……ああ、そりゃ聞き飽きたばい」
鬼丸はポツリとつぶやき、窓を閉めた。ラジオの言葉と現実との落差が、胸にじわりと広がる。「どこが支えとるっちゅうねん……現場の声、誰も聞いとらんやろが」
どこにも記録されない“この時間”を、今日も静かに過ごしている。
それが、ドライバーという仕事やけん。


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