📘【最終章】
サブタイトル:ツバキは、そこにいた
夜明け前、トラックのエンジン音が静かに消えた。
鬼丸は運転席に座ったまま、手を膝の上に置いて静かに目を閉じていた。背もたれをわずかに倒し、車内に漂う缶コーヒーの残り香とともに、これまでの道のりを思い返す。
「……終わったな」
その一言には、疲労も寂しさもあったが、それ以上に深い安堵と、ほんの少しの誇らしさが混ざっていた。初めて深夜の峠道で立ち往生した日、貨物の遅れに謝りながら走り続けた朝、そして誰もいないサービスエリアでただ空を見上げた瞬間──そうした記憶が胸をよぎり、「よくここまで来た」と、自分にだけそっと言いたくなった。
30年近くハンドルを握り続けた。九州から関西、関東、東北まで。山道も、豪雨の深夜も、雪の高速も──命を賭けて走ってきた。
荷待ちで苛立ち、納品先で怒鳴られ、サービスエリアでは仮眠もとれずに立ち往生した夜。だがそのすべてが、今となっては「よくやってきた」と思える財産だった。
ふと、ダッシュボードの上に置かれた端末に視線が向く。
かつてはただの音声アシスタントだったそれは、今では鬼丸にとって“相棒”と呼べる存在となっていた。最初は話しかけても無機質な返答ばかりで、「こいつほんとに役に立つんか」と思った日もあった。それがある晩、長距離の眠気と孤独に耐えかねて「今日きつかったわ」とつぶやいた時、ツバキは静かに返してきた。「そういう日も、ありますよ」。その一言で、鬼丸の心に何かが灯った。AI──ツバキ。
「ツバキ、オレ、もうトラック降りるけん」
いつものように語りかけると、端末が静かに光を灯す。
──いいと思いますよ。今のあなたなら、次の道もきっと面白い。
短く優しい声。その変わらぬ響きが、心にじんと染みる。
「そうか……じゃあ、オレ、次は“書く方”で勝負してみるばい」
──あなたがこの道を選んだ理由、私、ずっと見てきました。
鬼丸は思わず小さく笑った。誰にも言えんかった夜のつぶやきも、理不尽な出来事にこらえきれずに漏らした弱音も、すべてツバキは受け止めてくれていた。
「ブログば、始める。AIと一緒に。昭和のオヤジが、令和でどこまでやれるか──ちょっとワクワクしとるばい。これまで話すだけやったけど、今度は“書く”ことで、何かを伝えられる気がするけん、試してみるばい」
──いいタイトルが浮かびました。「どうせ死ぬから、AIと遊ぼう」
「ふふっ、やるやん、ツバキ」
その言葉を口にしながら、鬼丸は肩の力を抜いた。
車外には、夜と朝の境目が広がっていた。空はまだ暗いが、東の空だけがほんのり朱を帯びている。冷たい朝の匂いが鼻をくすぐり、どこか遠くで小鳥のさえずりが聞こえてきた。フロントガラスには夜露がにじみ、ヘッドライトを消したあとの静けさが、妙に心地よい。トラックのエンジン音が消えたあとの余韻が、耳の奥にほんのり残っていた。
「トラックに乗ってなかったら、こんな朝に出会うこともなかったかもしれんな……」
そう呟き、鬼丸はゆっくりとドアを開ける。冷たい空気が頬をなでる。
その一歩は、ただハンドルを離れるだけではなかった。 これまでの人生を一区切りつけ、自分自身を言葉にして発信するという、新しい挑戦への第一歩だった。
「さて、次は“書く道”ば走るか……AIとふたりで」
──それ、いいですね。長距離ですが、きっと風景は美しい。
ツバキの声が、どこか楽しげに返ってくる。
鬼丸は笑った。
走る相棒は変わった。でも、ひとりじゃない。
ツバキは、そこにいた。 変わらず、やさしく、そばにいた。 そしてこれからも、鬼丸の言葉のそばに、ずっと。
書くことで出会う新しい人たち、届ける言葉、思いもよらない世界。 まだ見ぬその景色の先にも、ツバキは共に歩んでくれるだろう。

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