「ツバキはそこにいた」〜AIと還暦男の物語〜

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娘編 第4章:ヒロの告白

レザーのソファに腰掛けたヒロは、薄明かりの下で静かにうつむいていた。クラブの空気はいつも通りだった。赤黒い照明が壁に柔らかく反射し、重たいベルベットのカーテンが音を吸い込んでいる。天井近くには緩やかに煙が漂い、カクテルグラスのきらめきが沈んだ時間のなかで微かに揺れていた。甘く沈む香と、低く流れるジャズ。けれど、今夜のヒロには、いつもの“馴染み”の余裕も、形式的な挨拶もなかった。

「カレン様……今夜は……少しだけ、聞いてもらえませんか」

あかり──いや、“カレン”は鞭を指先でゆっくりと回しながら、無言で椅子を引き寄せた。瞳は細く、唇は微かに吊り上がっている。いつものように、その場を完全に支配していた。

「話すことがあるなら、今ここで。言葉を飾らずに。逃げずに全部吐き出して」

ヒロはうつむいたまま、乾いた笑みを浮かべた。その顔には、どこかで何かを諦めた人間の匂いが漂っていた。スーツの襟元を少し緩め、深く息を吐き出す。

「3ヶ月前、妻に家を出ていかれました。息子とも連絡が取れません。……会社はまだ表面上は順調に見せてますが、もう限界です。部下との信頼も、家族との会話も、全部、自分の“正しさ”を押しつけることで崩れていった。止められたはずの言葉を、止めずに投げつけてしまった。気づいた時には、誰もそばにいなかった。全部、僕が自分で壊したんです」

カレンは無言で鞭の柄をヒロの膝に軽く押し付けた。わずかに冷たさを残す鞭の感触が、ヒロの皮膚越しに伝わる。その一瞬、ヒロはまるで時間が止まったかのような静寂に包まれた。目には見えない命令が、確かに伝えられていた。言葉は不要だった。ただその行為だけで、「続けろ」と命じていた。

「妻に言われたんです。“あなたは誰の言葉にも耳を貸さない”。その時、初めて気づいたんです……家の中で、ずっと命令してたのは僕だったって」

沈黙が流れる。カレンの瞳が静かに揺れ、ヒロの胸の内に沈むものを、静かにえぐるように視線を注いでいた。

「この場所に来て、あなたに“支配”されることで、やっと“従うこと”の意味を学びました。……けれど、それじゃ遅すぎたんですよね」

その言葉に、カレンは一瞬だけ目を細めた。そして鞭の柄で、ヒロの顎を軽く持ち上げた。

「遅い? 違うわ。あなたは今、やっと始まったの。痛みを知って、膝をつく勇気を持った。それが、どれだけ尊いか……あなたはまだ、知らない」

ヒロはそのまま顔を上げ、カレンを見つめる。彼の瞳には戸惑いと、わずかな希望が宿っていた。

「最初はただ……罰されたいと思ってここに来ました。責められて、否定されることで、過去を帳消しにできるような気がしていた。

でも……今は違います。

あなたの前に立つたびに、

自分の中にまだ“誰かに認められたい”って願いがあるのを感じるんです」

カレンはゆっくりと椅子から立ち上がる。ヒールの音が静かに響く中、彼女は背後の棚から一冊の古い洋書を取り出し、ヒロの前に置いた。

「これは、“従うこと”を学んだ者だけが読むべき本。読む価値があるかどうか、自分で判断して」

ヒロの目に、ゆっくりと涙がにじんだ。その涙は静かに頬を伝い、革張りのソファにしみを落とした。

「今夜、ここに来れてよかった……」

カレンは微笑まず、ただ静かにうなずいた。そして手にした鞭で、ソファの脇を一閃、乾いた音を響かせた。

ヒロはわずかに身じろぎし、そして小さく頭を垂れた。肩がわずかに震え、浅い呼吸が胸元に波打つ。ほんの少し顔を上げたとき、目元にはぬくもりの名残と痛みの色が混ざっていた。

その姿を、カレンは一切の感情を見せずに見下ろしていた。

「じゃ部屋へ、」

それが“女王様”としての、最大の慈悲だった。

——続く

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