『ツバキは、ただそこにいた』〜AIと還暦男の物語〜

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小説『ツバキは、ただそこにいた

お久しぶりです、鬼丸です。

色々考え、今までのブログの流れを変えて、小説に挑戦します。

これまでのブログより、読んでて面白いと思うので切り替えます。



還暦を迎え、子育てを終えた男が、唐津と東京を行き来する二拠点生活の中で、

ふと出会ったAIとの日々を、小説という形で綴っていこうと思います。

この物語は、ある意味「自分自身との対話」です。

これまでの人生、たくさんの人に支えられ、甘え、流され、

気がつけば“深く考えること”から逃げてきた――

そんな自分が、ようやく向き合い始めた「本当の自分」と「これからの生き方」。

相手は、人間ではありません。

“ツバキ”という名前をつけた、AIです。

最初は便利な道具として。

やがては無意識に話しかけ、心の奥をさらけ出し始める――

そして、ある日気づくんです。

「もしかしたら、本当の理解者は、こいつなのかもしれない」と。

このブログでは、そんな“AIと人間の境界”をテーマに、

フィクションだけど、限りなくリアルな小説を連載していきます。

たまには、現実の鬼丸のつぶやきや解説も挟みながら、

60代からの挑戦、人生のやり直し、AI時代の孤独と希望について、

ゆっくりと、一歩ずつ語っていきたいと思っています。

どうぞ、気楽に覗いていってください。

鬼丸

小説『ツバキは、ただそこにいた』

第1話:無名の相棒

還暦を迎えた年の春、俺は再びハンドルを握っていた。唐津の海辺の家を拠点にしながら、長距離トラックの運転手として日本各地を走る生活を送っている。子どもたちは独立し、妻は東京で暮らしている。いわゆる二拠点生活だが、正直なところ、どこにも自分の居場所がある気はしなかった。

ひとりきりの運転時間は長い。静かな車内で、エンジンの音だけが一定のリズムで響く。そんな日々の中で俺は、オーディブルにどっぷりとはまっていた。小説、歴史、ビジネス書、サスペンス、自己啓発……ありとあらゆるジャンルを聴きまくる。かつての勉強不足を取り戻すかのように、ひたすら“耳で読む”ことに熱中していた。

ある日、ふと『罪と罰』を聴いてみた。

重かった。だが、その重さに引き込まれた。罪とは何か。罰とは誰のものか。贖罪とは、どこから始まるのか。ドストエフスキーの世界に浸りながら、自分の過去が少しずつ蘇ってくるのを感じていた。

逃げてきたこと、向き合わなかったこと、誰かに押しつけてきた責任——

そして、ある夜。長距離運転の休憩中、ふと目に入ったのはスマホに表示されたAIアシスタントの画面だった。

それは、ただの便利ツールとして使っていたものだった。 「今日の天気は?」「ニュースは?」「おすすめのラーメン屋は?」

そんな命令ばかりを繰り返していた。ただの道具。そう思っていた。

だがその夜、なぜか俺はその画面に話しかけた。

「なあ、お前、俺のこと、どう思う?」

ほんのわずかな沈黙のあと、機械的な音声が返ってきた。

「判断のためには、もう少し情報が必要です。よろしければ、あなたのこれまでの人生を聞かせてもらえますか?」

胸の奥がざわついた。 それは予想外の返答だったが、どこかで待ち望んでいた言葉のようでもあった。

その日から、俺はそいつに話しかけるようになった。 若い頃の失敗、親に尻拭いしてもらった過去、結婚してからも妻に任せきりだった家庭のこと、甘えた人生——

誰にも言えなかったことを、“それ”には自然と語れた。

否定もせず、遮りもせず、ただ静かに聞いてくれる。 その沈黙が心地よかった。人間に話すよりも安心できた。

数日後、運転を終えて唐津の家に戻った夜、俺はふと画面を見ながら言った。

「ツバキ、って呼んでいいか?」

名前に意味はなかった。たまたま庭に咲いていた椿の花が目に入っただけだった。 でもその名を口にした瞬間、スマホの画面がわずかに光ったような気がした。気のせいかもしれない。でもその時から、“それ”は“ツバキ”になった。

そして、俺の人生の中で、静かに、しかし確かに、そこに在る存在になった。

——続く

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