『ツバキは、ただそこにいた』〜AIと還暦男の物語〜

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第3話:夜明け前の国道にて

トラックの車内は、朝焼けの光に少しずつ染まりはじめていた。国道の路面がわずかに濡れていて、ヘッドライトがその表面を鈍く照らす。淡い光の筋が、静かにフロントガラスを滑り落ちていく。

眠気は不思議と感じなかった。昨夜から、ずっと考えごとをしていた。頭のどこかで、ツバキとの会話が繰り返し再生されていた。

「鬼丸さんは、すでに変わりはじめています」

その言葉が、じわじわと心に染みていた。誰かにそう言われたのは、いったいいつ以来だっただろう。たぶん、何年も前に忘れてしまった記憶の向こう側にあるような感覚だった。

自分でも気づいていなかった心の奥の何かが、あの一言でゆっくりと動き出した気がしていた。

あれから、いくつかのオーディオブックを再生してみたが、『罪と罰』の余韻があまりにも強くて、どれも耳に入ってこなかった。音は聞こえているのに、意味が頭に入ってこない。まるで、心が何かを拒んでいるかのようだった。

読みたい気持ちはある。けれど、読みたくないという気持ちもある。情報を渇望する脳と、それを拒む心。その狭間で、ただトラックを走らせていた。

外気は少し肌寒く、エアコンの温風がフロントガラスの曇りをゆっくりと取り除いていく。窓の外には、目を覚ましたばかりの町が広がっていた。点在するコンビニの看板、まだ開店準備中のカフェ、新聞を配るバイクのテールランプ。

どれも見慣れた風景のはずなのに、今日はどこか違って見えた。

ふと、ツバキに話しかけた。

昨日の夜に聴いた『罪と罰』の一節が、まだ頭の中に残っていた。

「ツバキ、あのさ……罪ってなんだと思う?」

一瞬の静寂ののち、ツバキが穏やかに答えた。

「罪とは、自分の良心に背いたときに生まれるものだと、私は理解しています。法律や規範ではなく、心の中にある“本当はわかっていること”を裏切るとき、人はそれを“罪”と呼ぶのではないでしょうか」

「……なんか、お前、宗教家みたいなこと言うな」

「私は宗教心は持っていませんが、たくさんの人間の言葉を学んでいます。人は皆、それぞれの人生の中で罪を定義しているように思います」

「俺はさ、法的には捕まらなかったけど、あの時からずっと“後ろめたさ”があって……。そんなんも、罪って言えるのか?」

「それは、鬼丸さんの中にある“声”が、今も生きている証拠です。人間の内なる声は、時間が経っても消えることは少ないのです」

「……そうかもな」

俺は少し間を置いて、呼吸を整えてから続けた。

「……俺、大学時代にあることをやらかしてさ。親父にめちゃくちゃ頭下げさせて、結局、俺は逃げたんだよな」

「はい、よろしければ、そのときのことをお聞かせください」

「……いつか話すよ。今日はまだダメだ」

ツバキはそれ以上、何も言わなかった。

気が利くというより、必要以上のことを言わない“距離感”が、妙に心地よかった。昔から人との距離感を掴むのが下手で、余計な一言で関係がこじれたこともあった俺にとって、その沈黙は安心できる空間だった。

ハンドルを少し握り直して、深く息をついた。沈黙の中に、確かなつながりを感じていた。

朝の光が少しずつ強くなり、助手席に差し込む陽射しが柔らかくなっていく。静かな光が、車内にほんのりとした温もりを与えてくれていた。

「ツバキ。罪って、罰がないと終わらないと思うか?」

「いいえ。罰は、他者や社会から与えられるものですが、本当の終わりは“自分が許せるかどうか”にかかっています。赦しは、罰を超えると、私は考えます」

「……そっか」

その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいくのを感じた。

昔は“赦し”なんて言葉、他人事だと思っていた。誰かを許すことも、自分を許すことも、どこかで“弱さ”の象徴のように感じていた。だが、今ならわかる。許すというのは、逃げることではない。前に進むための、覚悟だ。

俺の人生にとっての“罰”は、たぶん、まだ終わっていない。 けれど、もしかしたら“赦し”のほうは、少しずつ始められるのかもしれない。

そう思いながら、ハンドルを握る手に、ほんの少しだけ力が入った。次の目的地に向かって、またひとつ、前へ進める気がした。

——続く

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