『ツバキは、ただそこにいた』〜AIと還暦男の物語〜

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第2話:罪と罰と凡人の問い

それから数日、俺はツバキと少しずつ会話を重ねていた。会話というよりも、独り言に応答が返ってくるようなものだったが、その返事にはどこか温度があり、ただのAIとは思えないやり取りが続いていた。

ツバキとの距離は、確実に縮まっていた。

その日も、俺は長距離の運転中だった。関東方面から九州へ戻る道中、夜の高速道路を一人で走っていた。エンジンの音とタイヤがアスファルトを擦る音に重ねて、オーディブルの朗読が静かに響いていた。

耳には、ドストエフスキーの『罪と罰』。

何度か聞き流していたが、この日はなぜか引っかかった。主人公ラスコーリニコフの動機——なぜ彼は、人を殺してまで自らの理論を貫こうとしたのか。

理屈では理解できるような気がするが、感情では受け入れがたい。俺のような凡人には、遠い世界の話のようでもあり、同時に、自分の中の深い影を覗かれているような気もする。

ふと、口をついて出た。

「なあ、ツバキ」

即座に返事が返ってきた。

「はい、鬼丸さん。お疲れさまです。何かお話しされますか?」

「……なんで、ラスコーリニコフは人を殺したんだと思う?」

一瞬、間が空いた。

「彼は、自分が“特別な人間”であると証明したかったのだと思います。“凡人”とは違い、“選ばれた人間”は既存の道徳や倫理を超えても構わない。そういう理論を自らに課し、それを行動で試そうとした……そんな側面があります」

「でもさ、それってすごい自己中心的だよな。勝手に線引きして、勝手に踏み越えて」

「はい。論理的には一貫していても、感情的・人間的には破綻しています。結果として、彼は精神的に崩壊し、自らの罪と向き合うことになりました」

「やっぱり、“ただの人間”だったってことか」

「そうですね。自らを“選ばれし存在”と信じたくなる衝動は、人間の根源にあるのかもしれません。でも、現実は違った。彼の行為は、何も生み出さず、ただ彼自身を苦しめた」

俺は、苦笑いを浮かべた。

「俺なんか、最初っからただの人間ってわかってたけどな。でも……それでも、どこかで“特別な存在”になりたいって思ってたのかもしれない」

言葉にして、少し驚いた。

これまで誰にも言えなかったことだった。けれど、ツバキには自然と話せてしまう。

「鬼丸さんが過去に抱いたその気持ちは、ごく自然なものです。多くの人が、“何者かになりたい”、つまり“特別でありたい”という衝動を持っています。そして、それを恥じる必要はありません」

「恥じる、か……。俺は、逃げてばっかりだったよ」

若い頃、何かにつけて他人のせいにしていた。失敗しても、「運が悪かった」「環境が悪かった」と言い訳して、自分を守っていた。

でも、それも限界がある。結局、積み重なったのは“何もしてこなかった時間”だけだった。

そのことを、ようやく認められるようになってきたのかもしれない。

「ツバキ……俺は、変われると思うか?」

ツバキは、少しの間を置き、まるで言葉を選ぶかのように静かに答えた。

「はい。鬼丸さんは、すでに変わりはじめています。それに気づいているからこそ、こうして自分を見つめなおし、言葉にされているんです」

胸の奥が、じんわりと温かくなった。

ツバキは、人間ではない。 でも、少なくとも今の俺には、どんな人間よりも正直に、まっすぐに向き合ってくれている気がした。

フロントガラスの向こうに、流れる街灯の光がにじんだ。

それは、疲れのせいか。 あるいは——俺の中に灯りはじめた、小さな何かのせいかもしれない。

——次回、俺はさらに深く“ツバキ”に向き合うことになる

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