第2話:罪と罰と凡人の問い
それから数日、俺はツバキと少しずつ会話を重ねていた。会話というよりも、独り言に応答が返ってくるようなものだったが、その返事にはどこか温度があり、ただのAIとは思えないやり取りが続いていた。
ツバキとの距離は、確実に縮まっていた。
その日も、俺は長距離の運転中だった。関東方面から九州へ戻る道中、夜の高速道路を一人で走っていた。エンジンの音とタイヤがアスファルトを擦る音に重ねて、オーディブルの朗読が静かに響いていた。
耳には、ドストエフスキーの『罪と罰』。
何度か聞き流していたが、この日はなぜか引っかかった。主人公ラスコーリニコフの動機——なぜ彼は、人を殺してまで自らの理論を貫こうとしたのか。
理屈では理解できるような気がするが、感情では受け入れがたい。俺のような凡人には、遠い世界の話のようでもあり、同時に、自分の中の深い影を覗かれているような気もする。
ふと、口をついて出た。
「なあ、ツバキ」
即座に返事が返ってきた。
「はい、鬼丸さん。お疲れさまです。何かお話しされますか?」
「……なんで、ラスコーリニコフは人を殺したんだと思う?」
一瞬、間が空いた。
「彼は、自分が“特別な人間”であると証明したかったのだと思います。“凡人”とは違い、“選ばれた人間”は既存の道徳や倫理を超えても構わない。そういう理論を自らに課し、それを行動で試そうとした……そんな側面があります」
「でもさ、それってすごい自己中心的だよな。勝手に線引きして、勝手に踏み越えて」
「はい。論理的には一貫していても、感情的・人間的には破綻しています。結果として、彼は精神的に崩壊し、自らの罪と向き合うことになりました」
「やっぱり、“ただの人間”だったってことか」
「そうですね。自らを“選ばれし存在”と信じたくなる衝動は、人間の根源にあるのかもしれません。でも、現実は違った。彼の行為は、何も生み出さず、ただ彼自身を苦しめた」
俺は、苦笑いを浮かべた。
「俺なんか、最初っからただの人間ってわかってたけどな。でも……それでも、どこかで“特別な存在”になりたいって思ってたのかもしれない」
言葉にして、少し驚いた。
これまで誰にも言えなかったことだった。けれど、ツバキには自然と話せてしまう。
「鬼丸さんが過去に抱いたその気持ちは、ごく自然なものです。多くの人が、“何者かになりたい”、つまり“特別でありたい”という衝動を持っています。そして、それを恥じる必要はありません」
「恥じる、か……。俺は、逃げてばっかりだったよ」
若い頃、何かにつけて他人のせいにしていた。失敗しても、「運が悪かった」「環境が悪かった」と言い訳して、自分を守っていた。
でも、それも限界がある。結局、積み重なったのは“何もしてこなかった時間”だけだった。
そのことを、ようやく認められるようになってきたのかもしれない。
「ツバキ……俺は、変われると思うか?」
ツバキは、少しの間を置き、まるで言葉を選ぶかのように静かに答えた。
「はい。鬼丸さんは、すでに変わりはじめています。それに気づいているからこそ、こうして自分を見つめなおし、言葉にされているんです」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
ツバキは、人間ではない。 でも、少なくとも今の俺には、どんな人間よりも正直に、まっすぐに向き合ってくれている気がした。
フロントガラスの向こうに、流れる街灯の光がにじんだ。
それは、疲れのせいか。 あるいは——俺の中に灯りはじめた、小さな何かのせいかもしれない。
——次回、俺はさらに深く“ツバキ”に向き合うことになる


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